今日、晩飯の準備をしている合間にテレビを付けたら、NHKで中々面白い番組をやっていた。
岡山にある寺で外国人の修行者を受け入れている、という内容のドキュメントだった。
仕事に自信を失った方や、人生に疑問を持った大学生が海外から来て修行に励んでいるらしい。
中には20数年に渡って修行を続けている元クリスチャンの女性の方もいた。
あまり詳しくは書かないが、仏教というのは例えば、
キリスト教であったりイスラム教であったりとは、かなり異なる性質を持つ宗教であると思う。
神に懺悔することで許しを得ようとするキリスト教とは違い
仏教では「禅」を組み、己と向き合うことで「悟り」を得ようとする。
仏教のそういった点に惹かれて、キリスト圏からも修行者が来るのだろう。
彼らは禅を組み修行に励む事で、雑念や煩悩、エゴを消し去ろうとする。
物乞いをすることで羞恥心を消す、なんていう修行もあるらしい。
あらゆる雑念から解き放たれる事こそが仏への道であるわけだ。
そうした修行を重ねて、彼らの心中が穏やかになって行くのが映像を通して良くわかった。
まず顔つきがまるで違う。
そういう姿を見て少し羨ましくも思ったが、どう考えても自分はああはなれない。
雑念や煩悩、エゴを捨て去る事が仏への道なら、それは人間でなくなろうとしているのではないか。
そりゃ心は平和だろうし、そっちの方が楽だろう。自分もそうなったらもの凄く楽だ。
全てを受け入れられる様になるのだから。
仏教の教えに三法印というものがある。そしてその第一が「諸行無常」これは仏教の根本思想だ。
「全ての物は消え去るのだから、現世の下らん事に拘ってんじゃないよ」
簡単に言えばこういう事になるだろうと自分は解釈している。
まあでもねえ、「どうせ消え去る」ことがわかりきってるからこそ
こちとら色々な物に囚われまくって生きているわけだよ。エゴ丸出しで。
消える前に色々やって、何かを感じたいわけですよ。
雑念も煩悩も、それら全てが自分なのですよ。
自己という物への拘りこそが、人間が人間たる由縁である。
人間なんて汚くて当然。むしろ惨めで汚いから人間なのである。
とまあ、こういった事を考えながら、鶏の竜田揚げを作って、おいしくいただきました。
つうかあれだ、修行僧になったら竜田揚げ食えないな。
この先の人生行き詰まったら、出家もありかなと思ったがやっぱダメだ。
竜田揚げを食えないなんて、そんな人生まっぴらゴメンです。
「いーいないいなー、にーんげんっていいなー」とか言ってる、あのふざけた歌の良さが今なら理解できる。
